五年ほど前の私は、結婚したら成長できなくなる、と本気で思っていました。
学びたいことがまだたくさんあったからです。英会話も続けたかったし、簿記やFPの資格も取りたかった。立ち居振る舞いを習ってみたかったし、山にも登ってみたかった。結婚して忙しくなったら、そういう「新しいインプット」ができなくなる。それが怖くて、独身でいるつもりでした。
今の私は、現実的な仕事を始めて、忙しくて、もうほとんどインプットができていません。五年前の私が一番恐れていた状態です。
それなのに、全然嫌じゃないんです。むしろ、地に足がついている感じがする。昔の感覚のほうが恥ずかしいくらいです。
この変化は何なのか。最近やっと言葉になったので、書いてみます。
世の中には二種類の哲学がある
本屋に行くと、自己啓発の棚と、仏教の棚は別の場所にあります。でもあの二つは、本当は「一冊目」と「二冊目」なんだと思うようになりました。
成功哲学、つまり自己啓発が教えてくれるのは「登り方」です。スキルを増やす、努力する、可能性を広げる、這い上がる。若い頃、これは本当に役に立ちます。社会の仕組みを批判するだけでは一ミリも動けないけれど、自己啓発は自分を動かしてくれる。登る時期の人間には、これ以上ない道具です。
一方で、仏教が教えてくれるのは「降り方」です。足るを知る。比べない。繰り返しの毎日に味わいを見つける。執着を手放す。登っている最中の若者には、正直ピンとこない教えばかりです。私も昔はピンときませんでした。
でも、この二つ目の哲学がないと、人生の後半が立ち行かなくなるんです。
直線の時間と、円の時間
田舎で農業をしている方が、新聞のインタビューでこんなことを言っていました。都会の時間はどこまでも伸びる直線で、田舎の時間は季節でぐるぐる回る円だ、と。
直線の時間には、終わりがありません。出世しても次の役職があり、学んでも次の資格がある。「これで完成」という地点が構造的に存在しない。だから直線の上にいる限り、今日はいつも「まだ足りない日」です。
円の時間は違います。種を蒔いて、育てて、収穫して、また春が来る。同じことの繰り返しに見えて、一年ごとに「やり終えた」が訪れる。満足が最初から組み込まれた設計です。
成功哲学は直線の哲学で、仏教は円の哲学です。そして人生には、直線を走るべき時期と、円に乗り換えるべき時期の、両方があるのだと思います。
繰り返しを味わえるのは、高度な技術
「毎日同じことの繰り返しで」という主婦の愚痴があります。たしかに家事や育児には、給料も昇進も表彰もありません。頑張っても誰も褒めてくれない。
でも、同じ生活をしていて、ニコニコと機嫌よく暮らしている人もいます。何も起きない一年を「大切な人が病気も事故もなく一緒にいてくれた、豊作の年」として味わえる人がいます。
あれは性格ではなく、技術です。報酬の出ない反復に、自分の内側で味わいを見つける技術。派手さはないけれど、実はかなり高度なことをやっている。私はこれを「里山の幸せ」と呼んでいます。滋味深くて、穏やかで、キラキラはしていないけれど、ちゃんと満ちている幸せです。
そして誰の人生にも、報酬の出ない反復は必ず、大量にやってきます。家事も、健康管理も、老いも。だからこの技術は、主婦の徳目ではなく、人生後半の必修科目なのだと思います。
順番を間違えると、両方とも毒になる
大事なのは、二つの哲学の「順番」です。
若いうちに仏教だけを覚えてしまうと、元手を作る前に降りてしまいます。「足るを知る」というより、単にまだ何も持っていないだけになってしまう。若い時期の「もっと学びたい、もっとできるようになりたい」という飢えは、恥ずかしいものではなく、成長期には正しい飢えです。若木がひたすら上に伸びようとするのは健全なことです。
逆に、歳を重ねても成功哲学しか知らないと、降りられなくなります。定年後も会社の肩書きで周りを査定してしまう人。何十年も二十代前半と同じ遊びを投稿し続けて、だんだん元気がなくなっていく人。勝ち続けた人ほどこうなりやすいのは、皮肉ですが当然で、直線のゲームで報酬をもらい続けた人には、降り方を学ぶ機会が一度も訪れなかったからです。成功は、成熟を先送りにするのです。
伸びる時期の木は伸びればいい。実をつける時期の木は、伸びるのをやめて実をつければいい。問題は、切り替えの時期を見誤ることだけです。
「もういいや」は、挫折ではなく卒業証書
では、切り替えの合図はどこで分かるのか。
私は「もういいや」という感覚だと思っています。仕事が一通りこなせて、なんだか退屈になってきた。資格の勉強に、前ほど心が動かなくなった。もっとすごくなろう、より、落ち着こう、と思うようになった。
これは停滞ではなく、第一部の卒業通知です。
会社員の方で、子どもが生まれたとき「何者にもなれなかった自分が、ついに赦された気がした」と感じる人がいるそうです。自分の成長物語を閉じて、次の世代の物語の応援に回る。それでほっとする。私の場合は、子どもではなく、体力の制約の中でも続けられる現実的な生業が見つかったことが、その「赦し」でした。有名になるとか、成功するとかではなく、これで生きていこうと思えた。定まらなかった時期のほうが、ずっとしんどかったです。
扉は人それぞれ違います。でも、可能性の追求という終わりのない宿題から、納得できる理由をもって解放される、という中身は同じです。
虚しさは、故障ではなく完成の通知
基盤ができた人が、ふと虚しさや孤独や退屈を覚えることがあります。あんなに夢中だった努力に、心が動かなくなる。世間ではこれを、ミッドライフクライシスとか、心の不調の入り口のように、故障として語りがちです。
でも私は、あれは完成の通知だと思っています。
達成の報酬系は、人生の基盤を作らせるための仕組みです。基盤が完成すれば、役目を終えて鳴りやむ。満腹になれば食欲が消えるのと同じで、消えたのはシステムが仕事を終えた証拠です。虚しく感じるのは、古い報酬系がもう鳴らないのに、新しい報酬系、つまり味わう力や育てる力が、まだ据え付けの途中だから。あの空白は喪失ではなく、改装工事の期間なのです。
移行が来るのは、老いたからではありません。その人が完成されてきたからです。物理的にできることを増やす時期が終わって、内面を充実させる時期に入った。そしてこの移行を通らないと、人間は真には満たされないのだと思います。成功だけでは、人は満たされないからです。
降りるとは、負けとは限りません。本当の幸福を見つける大人になっていく、ということです。
成長の定義が、変わる
私は長いこと、成長とは「できることを増やすこと」だと思っていました。その定義の中では、インプットが止まることは死ぬほど怖いことでした。
今は違う定義を持っています。生活をちゃんと回すこと。協力し合える人間関係を築くこと。きちんと気晴らしをして、機嫌よくいること。健康に投資すること。ささやかな仕事に充実を感じること。
それも全部、成長です。というより、成長期の次に来る、成熟期の成長です。スキルはもう増えなくても、同じ一日から汲み取れる味わいは、これからも深くなっていく。
若い頃の私は、ずっと地に足がつかない感じがしていました。直線の上にいる人は、現在を常に「まだ足りない地点」として通過するからです。今日がいつも明日のための準備で、目的地には永遠に着かない。
円の時間に移ると、今日が目的地になります。今日ご飯を作って、機嫌よく過ごせたら、今日はもう完成している。地に足がつくというのは、未来ではなく現在に住み始めた、ということなのだと思います。
まとめ ― 二冊目の本を、そっと近くに
成功哲学は、勝ち方を教えてくれます。仏教哲学は、勝敗からの降り方を教えてくれます。人生には、両方の時期があります。
世の中の生きづらさのかなりの部分は、どちらか一方の哲学しか知らないまま、時期に合わないほうを使い続けることから来ているのではないでしょうか。
いま「まだ足りない」と苦しい人へ。その苦しさは、登る時期の正しい痛みかもしれません。だったら、登ればいい。でももし、頑張り続けることにどこか飽きて、「もういいや」という声が聞こえ始めているなら、それは失速ではなく、乗り換えの合図かもしれません。
降りた先には、キラキラはしていないけれど、滋味深い、里山のような幸せが待っています。何も起きない一年を、豊作だったと思える日々です。
一冊目を読み終えた人は、二冊目をどうぞ。あれは負けた人の本ではなく、登り終えた人の本です。
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